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地球誕生以来、生きとし生けるものたちのボスに君臨してきた歴代の生物がどれくらいいるのか、知らない。

そもそも、なにをもってして「ボス」なのかは、ひとまず横に置いといて、

宇宙の誕生とそのサイズまでをも知ろうとした生物は、ヒト科ホモサピエンス以外、おそらくはいないだろう。

宇宙に対するマクロな研究は、同時に物質の最小単位である原子核や素粒子が織りなす未知なる世界への旅でもあった。

もちろん、逆もまたしかり。

はるか紀元前から人類はマクロを知るためにミクロを学び、ミクロ(マイクロ)を学ぶためにマクロな世界に憧れ、時に怖れおののき、時に感銘し、時にたじろいできた、はずだった。

それは同時に、人類にとってミクロ(マイクロ)な世界に接する際の、ある種の礼儀でもあった。

太古の人類は、まず、宇宙を見上げ、ありったけの想像力をスパークさせ、そこから旨いダシを摘出し、創作活動の支えにしてきた。

そもそも、宇宙をただ見上げる、という行為は――どうゆう訳か大脳新皮質が異常に発達し過ぎたヒト科の「人類」――にとって否が応でも想像力を、その可能な範囲ぎりぎりにまで広げてしまう、安易で少々危険な行為。

ただし、これは太古の昔を生きたドリーマーたちの場合、である。

宇宙を見上げることや、ミクロな自然界に身を浸すこと以外に、あまりにも多くのエンターテイメントがある。

もとい、インスピレーションの源と錯覚してしまう無数のインフォメーションや、一時的にインスパイアされたかのような気にさせてしまう即物的カルチャーで東西南北―右も左も溢れかえっている。

……と、なんだかヘリクツでむさ苦しい文章になってきたところで、

ついでにハナシの趣旨まで見失ってしまった……。

ところで、

ヒト科に属するわれわれ「人類」という種の寿命、について、ふと……考える。

そもそも「自然界」一部であるはずのわれわれ人類が、その母体である「自然界」から戒めや警告や制裁を立て続けに受けてしまう、という構図。

それは、霊長類ヒト科ホモサピエンスというわれわれ人類が「自然界」からのけ者に(キックアウト)されてしまっている証拠のような気がしなくもない。

天体にきらめく星々をゆっくり堪能する、という機会を定期的に持っているだろうか?

そして夜、漆喰の水平線にぼんやり差し込む天の川の光に、うつつをぬかす、といった自由……地球上生物のみに与えられたゴージャスなひととき……に、ドップリひたることを忘れたりしてはいないだろうか?

人間は、宇宙の外のことや、宇宙が始まる前のこと、そしていずれ消えてゆく宇宙そのものについて、あるいは、この「人類」という生物の寿命や「森羅万象」の終焉について。さらには、「無」さえも存在しない世界について想いを馳せたりはしないだろうか?

ついでに記せば、人間の想像力が及ばない世界に想いをはせることなど、無駄で精神衛生上、あまり芳しくない行為だと結論付けてしまったりはしていないだろうか?

人間の想像力に限界などない、と主張する方々が圧倒的なこの世界で、

「いや、限界はちゃんとあるさ」と断言し、

「その限界ぎりぎりのところを彷徨うのが人類に与えられた使命だ」などと付け加え、

「たとえ精神の崩壊と引き換えだろうと、想像力の限界を一瞬でも突き破ることこそ、創造主がわれわれ人間に与えたノルマなんでね」と涼しい顔してキャメルに火を付けてみたいもの……。

ところで、何の話をしているのか??

細胞とその原子核のつくりは

巨大銀河群とブラックホールのつくりに

よく似ている

Takeshi Traubert & 丸本武

ここのところ「終電逃し」ばかりの小生。まるで週末でもないのに……ひとりクラブで踊り明かして来たかのように……まぶしい東陽に目を細め、着古した黒いジャケットの襟をむりやりなおし、通勤者とすれ違ってゆく道ゆき……朝一番のガラガラ電車と酔っぱらいが織りなす早々朝の光景に溶け込む、おのれ……

帰宅しても仕事があるのでバッタリ眠るワケにもゆかず、半時間ごとにブラックのコーヒーを淹れ、喫煙度数はもはやヘビーやチェーンを超え、眼の充血度はマリワナ常用者レベルで、その日の仕事に取り掛かるのだけれど、どんなに頑張ろうと、既に慢性化してしまった疲労と寝不足のおかげで集中力も忍耐力も想像力も使い古されたモップのよう。

そんな状態でまともに仕事などできやしないのに、それでも仕事らしきものをしなければ明日が無いフリーランサーというカルマ……

今日こそは終電に間に合ってぐっすり眠ってやる、と決め込んでも、おそらくまた終電に間に合わず、始発電車を待ちながら野良犬のように真夜中の大都会をとぼとぼ歩くのだろうか……今日も。

と、そんな個人的な生態観察はよしとして、昨夜は仮眠を少しでもとろうと、数年振りにインターネットカフェなる不可思議な施設で約3時間過ごしたのだが、世に言う“ネットカフェ難民”はどこにもいなかった。念のためにと何件も回って聞き込みをしてみたのだが、どのインターネットカフェの店員さんに聞いても返事は決まって「ウチにはいませんね~」。

もうネットカフェ難民など古いのだろうか?

それともインターネットカフェという施設に支払う僅かな金銭も払えなくなり、さらに安く過ごせる「施設」に、元ネットカフェ難民は移行していったのだろうか?

「かれら」はこの不景気をはるかに通り越した経済状況の中、いま、どのような生活をしているのだろう?

と、疑問符をあえて付けてみたが、実は答えを知っている。

しかし、底辺で生きている人々の生活状態を報告する場ではないので、省略。

問題は、「3.11」から数年、もしくは十数年後の若者たちは“アジア”に生きている、という実感を抱きながら、汚染されたこの列島で破綻した日本経済を尻目に、まるで不可触民であるかのような生活を、巨大なスラム街と化したTokyoというコンセプトの中で送らなければならないのではないか?

と、そんな不安が一瞬よぎった。

これが単なる妄想で済めばよいのだが、自然界の長(おさ)は想像以上に手厳しい。

誤解を恐れず書いてしまえば……

われわれヒト科の霊長類が他の生物や自然界、そしてこの地球やこの太陽系に支払うべく莫大なツケは、「無数のいのち」でコト足りるものではないだろう。

そしてそう遠くないある朝、自然界の長がホモサピエンスという生物を裁くとき、裁かれる側であるわれわれは、どう裁かれたのか知らぬまま、地球から姿を消していることだろう。

そして再び己に問うてみる

霊長類ヒト科という種族ひとつがこの地球上から姿を消すことと、

海棲哺乳類ジュゴン科という種族ひとつがこの地球上から姿を消すこと、

そのどちらが深刻な問題なのだろうか……と。

そのどちらが“一大事”なのだろうか……と。

べつにペシミスティックな問いではない。

あえて付け加えるならば、

「なにごとにも順序や順番がある」

そう思わずにはいられない。

2011年10月7日

【告知:2011年9月9日(金)★ 伝説のポエトリー・イベント復活】

――― 9・11から10年、3.11から半年、レクイエムを込めたミラクルな一夜 ―――

あの「IPONIKA JAPONIKA POETIKA」から3年

さらに「Poetry Gungsters」「Poetry Planckstars」から2年

そして今年新たなメンバーを迎え

ギャラリー・セット「Poetry Cocktail」としてこっそり復活。

*******************************************

ひさしぶりにポエトリー&トーク・イベントをささやかに開催させて頂くことになりました。

告知です。

関東にお住まいの方、
ぜひ 9月9日(金)は、今年新しく再始動した「ポエトリー・カクテル 2011」に遊びに来て下さい。

詳しい告知はまた追って致しますが、9月9日の夜8時に、外苑前のTAMBOURINE GALLERY(タンバリン・ギャラリー)へ

★ぜひ友人・知人・同僚・恋人・ご家族もお気軽に誘ってみては?

今回のセット、出演者は4名。

Dr . A . SEVEN
(伝説のサイケデリック・シンガー、詩人、これまで幾つもの伝説的祭りをコーディネートしてきた、とにかく“伝説的”という言葉が最もよく似合うアンダーグラウンド・カルチャーの重鎮、ドクター・A・セブン)

ROBERT HARRIS
(日本で最もクールなラジオDJ、また多くの著書があり、その波乱に富んだ人生から紡ぎ出されコトバの数々は、読者をどこまでもボヘミアン・ワールドへといざなって止まない生来のストーリー・テラー、ロバート・ハリス)

REINA BLUEMOON
(様々な極秘資料を目に通すことができ、さらにそれらを翻訳する権限を持つ日本でも数少ない名トランスレーター。それだけでなく、プロ顔負け、奇跡のような一瞬を切り取るフォトグラファーであり、また稀代の女流歌人でもあり、無数の顔を持つポエトリカン・エンジェル、レイナ・ブルームーン)

TAKESHI TRAUBERT
(タケシ・トラバート、こと、丸本武。小生)

以上、出演者4名の肩書き書きはよしとして、

会場:タンバリン・ギャラリー

アクセスhttp://tambourin-gallery.com/tg/access/1.html

開場:19:00

開演:20:00~(終演21:00予定  ・ 延長あり)

入場料:1,500円(ドリンク付き&オリジナル・ポストカード)

◇これまで「ポエトリー・リーディング」を生で聴く機会のなかった方、日本のポエトリー・カルチャーに大きな影響を与えてきたゲストをお迎えしてのイベントです。良い機会だと思ってぜひ会場へ足を運んでみてください。

主催:Olove Press International. & Poetry Junkies

(宴責)丸本武
takeshi traubert marumoto

注釈:この長文はかれこれ数年前にどこからか依頼があって書いたものだったような気がするけれど、誰から依頼があったのか、どんな組織から頼まれたのか、忘れてしまった。長ったらしいが、最後までお付き合いして頂ければ感謝。 by Takeshi Traubert

 ―――その小史と簡単な覚書《抵抗運動と詩》―――

  そしてビート・ジェネレーションとカウンターカルチャーに関する「おぼろげな白書」

「ポエトリー・リーディング」とは、いったいどんなものなのか知らない方にとって、まず、その歴史を簡単に振り返ってみることは理解の大きな助けになるだろう。

「詩の朗読」と言ってしまえばそれまでだが、

古今東西、“詩”を“朗読”するという行為をすべて「ポエトリー・リーディング」と捉えてしまうと、とんでもないことになってしまう。

かつて、“詩”を“朗読”する詩人といえば、

もっぱら王様や貴族を愉しませると同時に相談役として使え、
豪奢な住居を与えられ、経済的安定を保障された一種の国家公務員のような存在を指した。

ギリシャ、ローマ、ペルシャなどといった帝国では詩人の役割は現在では想像もつかぬほど重要であったことはご存じだと思う。

ときにアドバイザーとなり、ときに情報伝達者となり、ときにカウンセラーといった役目も果たした。同時にまた、現在のジャーナリストやニュース記者に相当する存在でもあり、またスパイとしても重要な任務を果たしていた。

例えるならば、大統領補佐官と広報担当者と第一秘書と公安と専属精神科医をすべて兼任する重要人物である。

他の宮廷楽士や宮廷画家などとは一線を画す存在だ。
それは日本の中世に於いても同じことが言えるだろう。

そういった意味で、村から村へ、町から町へと放浪を繰り返しながら、
各地でストーリーテリングをしていた「吟遊詩人」のほうが、現在における「詩人」という定義に近いかもしれない。
しかし、その歴史はあまりに長い。

「詩の朗読」というものを広義な意味で捉えるならば、その起源は人類の誕生と時を同じくする、と言っても過言ではないかもしれない。

文字が発明される以前、人はもっぱら言葉や音で意思の疎通をはかっていた。

遠くの土地を旅してきた商人や巡礼者たちは旅の途中で遭遇した出来事やエピソードをいわゆる“詩”というカタチを取って(ときには打楽器や弦楽器が奏でる“音”を伴い)故郷の者たちに抑揚をつけて語って聞かせた。

吟遊詩人の原型である。

今でも識字率の低い土地では口頭伝承で歴史や逸話、そして伝説を語って聞かせるが、その役割を担うのはたいてい吟遊詩人である。

単に語るのではなく、うまく韻を踏んだりアクセントを凝らして決して聞くものが飽きないように“語る”のである。
それは日本の浪曲や俳句、そして歌会に多少なりとも通じるところがある。
また、琵琶法師なども典型的な吟遊詩人として捉える事ができるだろう。

     ◆

しかし、近代に於いて我々が一般に「ポエトリー・リーディング」、と呼ぶものは、
それら伝統的なものとも自然発生的な吟遊詩人たちが残した文化とも異なる。

こんにち我々が認識する「ポエトリー・リーディング」の原点と呼べるべきエポックメイキングな地点を、どこに見出すかについては、諸説入り乱れ、確定することは難しい。

けれども、私はあえて19世紀末のフランスと、大戦後のビート・ムーブメントに的を絞りたい。

特に「ビート・ムーブメント」にだ。

なぜなら、いま我々が当たり前のように享受している文化や思想に多大な影響力を与え続け、そのムーブメントは、来るべき新しい文化へと率先して導いてゆく不断の原動力であり続ける「ハプニング」だったからだ。

“ムーブメント”というと一過性の運動と捉えられがちだが、1950年代にビート世代が無意識に行った「革命」の精神は、これからもずっと衰えることなく受け継がれてゆくものだと信じている。

       ◆

まず「詩の朗読」近代史において最初に公の場で自作詩の朗読をはじめたのが、

フランスの「アカデミー・シャルル・クロ賞」で有名な鬼才、シャルル・クロ。

1869年頃から詩人として革新的な作品を、世紀末パリのサロンで朗読しはじめたことが、後の欧米における最初のポエトリー・リーディングであったことが確認されている。

20世紀に入り、現代音楽やジャズの演奏をバックに自作の詩を読んだケネス・レクスロスやサーンドバーグといった巨人たちは、このシャルル・クロの試みを近代史における最初のポエトリー・リーディングと位置付け、ある種のお墨付きと、敬愛の念を込め、ことあるごとに引き合いに出してきた。

しかし、19世紀末を生きたシャルル・クロ……。
フランス文芸サロンのデカダン詩人でもあり、エジソンより一足先に蓄音器理論を論文化し、同世代に活躍した多くの詩や文学者、そして化学者や音楽家に多大な影響を及ぼしながらも、1888年、貧しさと孤独の中でまともな詩集さえ出版されることなく亡くなってしまう。

その後、幾人かのシンボリックな詩人を例外として「ポエトリー・リーディング」は表舞台から影を潜め、あまたに存在する表現形態の中で絵画や音楽のずっと後ろの方で、その存在感が薄くなっていってしまう。

しかし、1940年代に入り、ジャズの一形態であるビーバップが登場する。

黒人のスラム街で話されるヒップで韻を踏んだ独特な話し言葉に触発された一部の白人作家たちが「ポエトリー・リーディング」を永い眠りから叩き起こしてしまった。

さらにそれを一気に世界規模のカルチャーへと昇華させたことは、現代史をその根底から覆してしまったといっても過言はない。

その中心人物が、20世紀、最も偉大な作家で詩人であるジャック・ケルアック。

戦後、世界を尻目にアメリカは戦勝国として経済的にも文化的にも裕福な時代をむかえるわけだが、その恩恵にあずかったのは結局ミドルクラスやハイクラスに属する市民。

有色人種や労働者階級の貧しい白人たちにとって、相変わらずの生活苦が改善されたわけではない。

アメリカが世界のコントローラーとして君臨できたのも、鉱山や大企業の工場といった低賃金で働かされていた肉体労働者たちのおかげであったわけだし、世界に誇る軍事産業や自動車産業にしたところで、それを支えていた寡黙な労働者たちの血と汗と涙あってこそ。

そんな見かけ倒しの「アメリカ」に疑問を持ち、社会構造の痛いところを最初に突いたのが、後に「ビート・ジェネレーション」と呼ばれるグループであった。

グループといっても、先に述べたジャック・ケルアックの他、アレン・ギ―ンズバーグやウィリアム・バロウズというほんの数名の作家志望者の集まりである。

彼らは皆、高等教育を受けた中産階級出身者であり、何かしらコンプレックスを秘めたデリケートなニューヨークの若者たちだ。

経済的なゆとりはあったにせよ、漠然と浮かれ騒ぐ「アメリカ」というひとつのコンセプトに苛立ち、依然として既存の文化や風習の延長線上であぐらをかくソサエティーに閉塞感をおぼえ、そのはけ口として酒やドラッグに溺れては悶々とした日々を送っていた。

そこへ現れたのが、幼い頃から「アメリカ」の底辺で人生を謳歌しサバイヴしてゆく術を身につけた路上のヒーロー、奇想天外な言葉の魔術師、ニール・キャサディだった。

その、ずば抜けた行動力と、片っぱしから社会的ルールをぶち壊して涼しい顔しながら、ペテン師のような口調で矢継ぎ早に路上の叡智をふりまき、出来たてホヤホヤのハイウェイ、ルート66へと創作活動に行き詰まっていたケルアックたちを駆り立てた大胆不敵な自然児だ。
彼こそが本当の意味で唯一の「ビート」だったかもしれない。

当時、新たな変革期をむかえていたニューヨークのジャズシーンが、かれらの旅と創作活動を後押ししたことも忘れてはいけない。

ロックンロールが音楽界に揺さぶりをかけるまで、まだ10年はあった。

ニール・キャサディと出逢ったケルアックは、40年代後半から50年代にかけて「本当のアメリカ」を探す旅を繰り返し、大陸のあちらこちらで仲間のギ―ンズバーグやバロウズ、そして無数の即興詩人たちと朝日が昇るまで酒やドラッグをつまみに、来たるべき世界について語り明かしながら、徐々に新しい「コトバ」と、その用い方を習得していった。

そして、ひとつの旅から次の旅へのつかの間の静寂を用い、その疾走感や麗しの体験が冷めやらぬうちに、自分たちが発見した新しいコトバや表現で森羅万象についてのなにがしかを散文や小説、そして詩といったものに変換していった。

     ◆

後にビートの創設者たちが世に放った作品の数々は、小説でありながら限りなく詩的な美しさをたたえている。

詩集でありながら元来の詩とは形式もスタイルもメッセージ性も、この世のものとは思えぬパワーとエモーションとヴィジョンに満ち溢れていたし、いまも色褪せてはいない。

とにかく、メディアや文壇の度肝を抜かすほど革命的なものとなった。

とりわけ小説として出版されたジャック・ケルアックの有名な『路上』や『荒涼天使たち』は、それまで人類が遭遇したことのないようなみずみずしさとイメージの洪水とポエジーが行間にまで刻印され、流れるようなその文体は声に出して詠まれることによって、さらに魂を吹き込まれた。

また、アレン・ギ―ンズバーグの『吠える』や『カディッシュ』といった詩群は、単なる活字による詩として完結することを拒み、当の本人がプリーストの如く高らかに詠みあげることによって、まったく別次元の美しさと警告をはらんだ芸術へと昇華されていった。

そんなビートたちが興したある種の「革命」は、多くの若者たちを覚醒させ、旅へと駆り立て、それまで「文学」という檻の中に閉じ込められていたコトバを自由な世界へと解き放ち、
一部の特権的な人間たちが独占していた文化を、すべての自由な心を持った若者や活動家たちに大きな活路を開かせた。

さらに時を同じくして、音楽の世界ではロックンロールが世界を震撼させ、アートの世界でもビートに触発されたかのような自由自在の表現がメインストリームを旋風し、60年代になると人権活動家や女性解放運動の旗手たちに勇気と活力を与え、反戦運動やフリースピーチ、性革命へとその影響力は計り知れないものとなってゆく。

その頃には既に「ポエトリー・リーディング」という文化はあらゆる世代に浸透し、街頭やカフェ、ライブハウスや教会で当たり前のように行われるようになっていた。

その現象はアメリカだけでなく、またたく間に世界中に飛び火し、日本の詩人たちにもすぐに受け入れられることになる。

ここで、日本に於ける「ポエトリー・リーディング」の現代史について述べる余裕はないが、忘れてはならない重要な一点についてのみ触れてみよう。

       ◆

50年代後半にビートの旗手たちが詩の創作するにあたり、そろって影響を受けた文化のひとつに、日本の俳句と禅思想があったことを忘れてはならない。

ジャック・ケルアックの親友であり、同時にエコロジーの創始者とも言われる詩人、ゲーリー・シュナイダーは、まだビート・ムーブメントがらの詩作活動に多大なる影響を与えた。

現にジャック・ケルアックの最高傑作と呼ばれ高い詩集『メキシコシティ・ブルース』や『ブルース・アンド・ハイクス』(どちらも本人の口から発っせられて初めて魂を持つ詩群)などは日本の俳句や禅の世界観が全編を通して漂っている。

アレン・ギーンズバーグに至っては、インドでヒンドゥー教を本格的に学んだあと、京都に滞在するゲーリー・シュナイダーのもとを訪れ、新たな表現方法を習得する。

その思想は、数年後、アメリカでヒッピーと呼ばれる世代が誕生する強力な原動力にもなった。

当時、日本でかれらビートの旅人たちといち早く接触した詩人たちに、ナナオサカキや諏訪優、そして現在も日本のポエトリー・シーンを引率する白石かずこさんなど、数え切れないほどの自由人、文化人が触発され、感化され、洗礼を受け、60年代から連綿とつづく日本の新しいカウンター・カルチャーの基礎を作り上げたことは、いまさら語る必要もないだろう。

最後に、もうひとつだけ重要な点を述べて、この「ポエトリー・リーディング」についての簡単な覚書を終えるにしよう。

      ◆

日本に於いても、その他の国々においても「ポエトリー・リーディング」というものが活発になる周期というものがある。

それは、決まってその国の政策がトンチンカンな道を歩み始めたり、外交上の危機や戦争や紛争に直接的にも間接的にも国家が介入し始めたときであり、また、手の施しようがない不況や経済的危機が訪れたときである。

そんな社会状況が当たり前のように市民生活の中へと浸透し始めると、必ずと言っていいほど声に出すポエトリー・ムーブメントが活発になる。

現に、バブル崩壊後の日本でも、ポエトリー・リーディングの大きなリバイバルがあった。

また昨今の日本政府による他国への軍事介入や政策不振は新たな世代を突き動かしている。かれらによって「ポエトリー・リーディング」が毎日のようにどこかで、それも細々としたものでなくあらゆる形態をとって大々的に開催されている。それが意味するところは、お察しの通りだろう。

それは、ビート・ムーブメント自体が、そもそも対抗文化のルーツといっても過言ではないことに起因する。

この場合、「対抗文化」という表現は、そのまま直訳され日本語として定着している「カウンター・カルチャー」として捉えて構わない。

「ポエトリー・リーディング」とは、巨大なシステムに対し、中指を突き立てる行為であると同時に、

平和や協調、

そして共振や共感を、

態度で示す行為であるのだから...

poem without words

(文責)丸本武
Takeshi Traubert Marumoto

『中東の民主化とエンターティメント(仮題:一部抜粋)』

「民主化」で何が変わるかといえば、まず物価と市民の経済感覚だろう。

生活の糧を稼ぐ、という当たり前の行為に勝ち負けというコンセプトが派生する。

そんなことは専門家に任せてしまおう。

今回は「中東革命」における思想の自由化とエンターティメントの変移、といった角度からこの度の北アフリカ・中東の文化状況について何某を書いてみたい。

数年前亡くなったパレスティナの偉大な詩人、マフムード・ダルウィーシュは生前、詩の朗読の最後を「わたしはわたしであり、ここにわたしがいる」というフレーズで閉じることが多かった。

それは民主化以前に中東各国で肩苦しい思いをしながら表現活動を行ってきたすべての表現者を代弁するものでもある。

 

思想的弾圧がとりわけひどかったのは文学と映画の世界だっただろうか。

中東各国とひと言で括ってしまっても、それぞれ個性豊かな文化的・歴史的背景を持ち、娯楽に対する捉え方や抵抗文化というものの定義そのものさえ異なる。そもそもイスラム教が社会生活のほとんどに影響を与えていたヨルダンやシリアといった国々と、新旧含めアラブ・カルチャーの中心地エジプトを、同じ尺度で測るわけにはいかない。

それでも程度の差こそあれ、中東諸国ではほとんどの指導者や政府が独善的な尺度で民衆の文化に口出し、時には排除してきた。

これらのことは遠いここ日本においても時おり聞こえてくる悲しみだ。

「思想犯」と聞くと、ここ日本では中国や北朝鮮で平然と行われている思想的弾圧を思い浮かべる方も多いだろう。

もちろんかの地での思想的弾圧はわれわれが一般に知るものより比較にならないほど厳しく、自由を奪われるだけでは済まないケースだって珍しくない。

ところが、書くことによって、話すことによって、表現することによって国家反逆罪に問われる土地は、たとえ独裁国家でなくとも中東地域に多々存在する。

先に挙げたマフムード・ダルウィーシュはアラブ諸国全域で支持され愛されてきたが、その半生には幾度もの投獄や長期に渡る亡命生活が暗い影を落としていた。

また、同じパレスティナを代表する俳優で、映画製作も手掛けるモハメド・バクリは、2002年にヨルダン川西岸地区にあるジェニンという町でのイスラエル軍による大虐殺をフィルムに収めてしまったがゆえに、起訴され、映画界から消されかけた。

 

 


モハメド・バクリ作品「ジェニン、ジェニン」

 

 

また、エジプト映画で特徴的なのは、かつてチャップリンが試みた手法だ。独自の思想や政府への批判はアクションやユーモアのオブラートでそっと包み、作者の主義主張はサブリミナル的に作品の中に巧みに織り込むのだ。お上から自分の名前や作品がブラックリストに載せられないよう。

しかし、その手の妥協策に我慢ならない作家や映画人たちは多い。

デビュー当初は比喩やペーソスを巧妙に用い、喜劇映画の衣を纏わせ、問題提起してきた作家たちも、変わりなく腐敗しつづける政府にいらだちを覚え、より直接的な反体制的作品をもっぱらアラブ圏外にマーケットを求め売り込みはじめた。

しかし、身の危険を感じながらも必死の思いで制作されたそんな名作の数々を、この日本で接する機会はあまりに少ない。

かれこれ二年半前、2008年東京国際映画祭で来日した『外出禁止令』『ウェイティング』、

そして傑作『ライラの誕生日』で有名なパレスティナの映画監督、ラシード・マシャラーウィ氏にインタヴューした際、

「チュニジアやアルジェリアにも優れた映画作家たちが多くいるが、かれらが制作した作品が発表される機会はほとんどないんだ」とボソッとつぶやいたのが忘れられない。

他にも、『テロリズムとケバブ』で有名なエジプトのシェリーフ・アラファ監督などは、コメディ作品でその名をアラブ圏にとどろかせたけれど、当の本人はもっとポリティカルな作品を作りたいはず。それは彼の映画のそこかしこに見え隠れしていた。

同じエジプトでも、『ヘリオポリスのアパートで』を撮ったムハンマド・ハーン監督は、政府に対しあからさまな批判をとり、なかなか撮りたい映画に取り掛かれないでいる。

また、『タクシーサービス』のレバノン人映画監督エリー・ハリーファもまた、思うように作品が作れず苦悩している。

今後の中東での動静いかんによって、現代アラブ文化の成長が国際舞台で評価されるようになるかならないか、目が離せない。そしてアラブ世界の映画監督だけでなく、作家や詩人たちの活躍の場が広がってゆくことを切に願う。

 

 

文責:丸本武 Takeshi Traubert Marumoto

“フクシマ” がこれからどうなってゆくのか先の見えない中、
 チェルノブイリ原発事故からもう25年もの歳月が流れてしまった 。
 いまだ現地で苦しんでいる多くの方々を想う。

◆今日、かつて某雑誌に寄せた記事の原稿をそのままここで掲載してしまおう。

時効も過ぎたことだし・・・(あの雑誌、おそらく日本で手にすることが出来た方々、せいぜい1万人程度だろうし、なんてったって写真が良かった)

*************以下「ベラルーシ幻想(「ミンスク夢幻」より)**************

「・・・バビロンから遠く離れて・・・」

・・・弱き者たちのみが、さらに弱き者たちの、

行動の伴った真の理解者となりうる・・・

アンドレィ・タルコフスキー(ソヴィエト映画の神様)

・・・絶対的な美という抽象概念は、時代や環境に左右されることは決してない。と言ったのは、中世に生きた名もなき絵描きだが、私もそう思う。

 

『序』

2004年9月2日。ベラルーシ時間A.M2時28分の早々朝。

数時間遅れでウィーン経由チロリアン・エアバス685便は首都ミンスク郊外の広大なスラヴィック平野に降り立った。

空港で私を出迎えてくれたのは、インツーリストのならず者でもなければ、顔に$マークが点滅してる廃墟の街にギラつくチープなネオンのようなZ級コールガールでもなかった。

空港の外でウェルカム・ボードを他に誰もいないのに精一杯両手で掲げ、私の遅れ過ぎた到着にイヤな顔ひとつ見せずに出迎え、荷物をテキパキとトラバント風オースティン・ミニの後部座席に運び入れてくれたのは、ベケットやハヴェル氏の芝居に必ず出てきそうなフェリーニ映画のボサボサ頭のロマ少年。

彼が操るヒップでビップなその車は、ホテルまでの真夜中のハイウェイをかっ飛ばす。

その間、私はすでにとんでもなく厄介な仕事を引き受けてしまったことに気づく。

先に告白しておこう。この度の「ベラルーシの美」を紹介する取材旅行にて、読者を十分納得させることのできる結論たるもの、遠くていまだ遠い国ベラルーシが抱え込む、良くも悪くも解釈できる “素晴らしい魅力” について、私は語る術を知らない。

創刊第二号にしていきなり『美女のルーツを求めて』なんて特集を組んだ旅雑誌の編集長には、ただただ呆気に取られるばかりだが、まあよしとしよう。思ったより高くついたバジェットはすべてアチラ持ちだし、ギャラだってそれほど悪くはないのだ。

こうなったらヤケッパチ。徹底的に中途半端でディープな論考をバロウズではないが、あくまでもカットアップ追憶してゆこうじゃないか!

 

 

私が記憶している、東欧革命とソヴィエト崩壊直後の、あの、なんでもありの混沌時代の狂乱は、すでにもう過去の歪な遺産となっているのは、意識の上では十分承知していた。

が、プーチン・ロシア主導の国民監視社会主義という後退懐古悪趣味に唯一巻き込まれかけているベラルーシは、再び東西を奇妙に隔てる不可視の壁の中に入ってしまった……とまあ、そういった偏見を日本出発直前、何者かに警告されるがごとく植え付けられたのだが、それが逆に功を奏し、はじめから幻滅していた私に透き通るような新鮮な西風とノスタルジアの灰煙が、私の毒された肺を満たしてくれたってわけだ。

 

「プシュキンスカヤ」という、偉大なる詩人プーシキンから取られた、おそらく本人とは縁もゆかりもない名を冠したその地区に、指定されたホテルはそそり立っていた。

九階の窓の、やたらとセクシーなカーテンを勢いよく開くと、そこには灰色にくすんだレインボー・ダークのスカーフにミンスクの町がすっぽりと包まれ、東の地平からはもうコミュニスティック・ブルーの夜明けのサインが、淡い光と共に銀幕のような窓の片隅で控えめな主張をしている。

私はすでに長旅の疲れを通り越し、体内の水分90%がもだえ、すぐにでも睡魔だかソーマの媚薬だかにこの無防備なカラダを素直に明け渡したかった。

数時間後、正確にはその日の朝9時キッカリからスタートする、編集部にまんまと企まれ丸め込まれた取材スケジュール濃密度表がビッシリ立ち構え、カッチリ待ち構えていることも忘れ、窓の外を眺めながら久しぶりのデジャヴーと不可思議なノスタルジアの罠にからめとられていた。

それは筆者が十数年前の東欧革命とソ連邦崩壊直後に訪れた、あの、モスクワやルーマニアの地方都市の、いまではとっくに失われてしまった特殊な空気。

かの地のどこかに住んでいた当時の自律細胞中枢部に眠っていた記憶……

“あの空気と匂い” が、いまだミンスク市を包み込んでいたかもしれないし、もっと個人的な見解になってしまうが、「未完と後退の美」、あるいは、「中途半端の美学」という、この国のステキな側面を直感的に感じ取ってしまい、センチメンタル・フラッシュバック……

それらが私の琴線にふれてしまったのかもしれない。

いや、たぶんこれは私の誇大妄想的偏見と時差ボケからくる単なる想い込みであろう。たぶんそうだ。

そう少々強引に解釈して目覚まし時計を二時間後にセットすると、すでに防備されてしまった憐れなカラダをタチの悪い睡魔に無償で提供すことにした。

ところで、寛容なる読者貴殿下貴婦人の方々。「あの世界」と言われても “あの世界” を実際に五感すべてと第六感を飛ばした七感と発汗作用の、言葉にすることが許されていない領域に存在する、あの独特な感覚を一度も心体感したことのない方には、こんな抽象的な説明ではピンともキリともこないだろう。

故に、この企画の “ベラルーシの部” は「あえて」ポジティブな意味における完成度の低さと独自性のなさと、添文の中途半端さを際立たせ、そこから少しでも「ベラルーシならではの独特な……」に続く “なにがし” が、どれを取っても食ってもつまんでも独特でもなんでもないという事実……

ベラルーシならではの(逆説的)独特な云々を多少でも理解して頂けるなら、私だけでなく、現地で惜しみない協力と(秘密警察にマークされてしまうという)リスクを伴う援助の両手を差し伸べてくださった多忙なるR女史と(国民が公言できない情報や本音などを都市郊外の原生林奥深くで熱意を込めて代弁してくださった)E女史の勇気ある清純さがむくわれるであろうか……。

 “美女?”

べつにベラルーシなんかじゃなくたって世界中のすべての国には必ず美女はいる。

しかし、どうゆうわけか世界とは理不尽なもので、ある特定の土地にそれは集中して存在したりする。

もちろん、混血を幾度も繰り返してきた結果、普遍的な美しさを兼ね備えるようになった、という凡論を持ち出すこともできるが、この号ではそんなチープな論法は無視させていただく。

私がここでおこがましくも書かなければならないのは、なぜベラルーシという、ある種、特殊で曖昧な土地に住む女性たちが、内面から滲み出てくるストイックで誠実な精神美を、そのまま理想的なかたちで素顔に反映させることに成功しているのか、ということ。

ついでに、稀に見る美女だらけのこの国で私が感じた、率直で主観的で少々自分勝手な意見のオンパレード。

美女街道をつっぱしるオン・ザ・ロードな旅路での考察……。そんなところだろうか……。

 

まず、このステキな特集のテーマから少し逸脱してしまうが、この国「ベラルーシ」について何かを語るにあたり、避けては通れない基礎知識、歴史的・地理的、そして経済的背景を少しばかし述べておかねばならないだろう。先に述べたように、あくまでもカットアップなやり方で列挙してゆく。

最初に、このベラルーシという国は、ヨーロッパの中でも稀にみる情報操作国家であり、かつてのKGBまがいな国家保安局の諜報員がうようよしているということを念頭に置いて読み進めて頂きたい。そんな事情柄、ディープな取材をするには膨大な時間と資金と、タフで高慢な交渉術とオトボケが必要である。  

なぜ故にこの国がそんな特異な状況下にあるかと考察するなれば……まあ、ニシとヒガシの間に置かれたクッションとして、スケープゴートされっぱなしの歴史持つニヒルな伝統故か。あるいは、ベラルーシ人の過剰なまでの寛大さと、愛国心より知的好奇心に重きを置くイカした国民性にうまくつけ込んでいる……ひとり芝居的自作自演戦争好きの元エリート・スパイ……プーチン氏による策略か内政干渉か、知ったこっちゃないが……。

 

 

『大国のツケを静かに払いつづけている国』

日本人や他の無機質先進諸国の住人にとって、あまり馴染みがないであろうこのベラルーシという国は、地理的に冷戦時代にはソヴィエトの場末と位置づけられ……

ソヴィエト崩壊後には最も資本主義レースに乗り遅れた、西でも東でも北でもない“どこでもないどこか”にある、いたってファジーな国と認識され……

EU再強化時代には、その存在自体ムシされ……

21世紀が幕を開けた頃には「たしか、あのチェルノブイリの近くにあったロシアの自治州かなんかだっけ?」ならまだしも、「スター・ウォーズに出てくる謎の惑星だろ?」……「クスリでいっちまったブルース・ブラザーズのかたわれで、サタデー・ナイト・ライブでブレイクした伝説の……」etc……と、

救いようのないまでの認知度。歴史にその名が登場する頻度のあまりの低さ。

なぜだろうか? でも、そんな謎といてゆくという企画ではないので、大胆な割愛に御理解を……。

世界が無視しつづけようが、それはそれでしかたがない。しかし、当のベラルーシでは、EU本部が東へ東へと触手をのばした結果、

「とうとう我々の国は、地理的にも文化的にも真にヨーロッパの中心になったのだ!」と、妙にうなずける発言が飛び出しはじめ、日本を含めた欧米諸国の多少は地理や世界史に明るい人間の中には、

「そう言われりゃ、確かにそうだよなぁ……」とつぶやいた方々もおられることだろう。実際、ポルトガルのロカ岬から、ロシアをぶった切るウラル山脈までが一ページにおさまった地図をどこかから引っ張り出して御覧頂きたい。

(注)現在、「ヨーロッパ」と便宜的に言われている土地は、西はポルトガルのロカ岬、東はシベリア地方を切り離したウラル山脈、北はもちろんラップランド、南は地中海から黒海へとつづくクリスチャン・ベルト、ということになっているの。そうすると、ベラルーシ国がヨーロッパのハートに位置していることは一目瞭然。

その昔、現在ベラルーシがある地区は、文化、民族、交易の十字路だった。

その後、中世から今日にいたるまであらゆる民族に蹂躙され、煉獄街道まっしぐら。20世紀にはソヴィエト対ドイツ戦の主戦場と化し、寛大寛容な民族性ゆえ無数のユダヤ人をかくまった功績に対する御褒美は、ナチス・ドイツによる大虐殺。

戦後は同胞でもあるモスクワの重鎮たちからも見放され、冷戦時代には良くて西と東のエアマット。

あの、チェルノブイリでの大惨事では、放射能が「中央」のモスクワまで流れてこないよう、人工降雨剤がベラルーシ南部の上空にばら撒かれ、肥沃な国土は半永久的に汚染され、ソヴィエト崩壊後も各国メディアのほとんどは、厄介だからと見ざる聞かざる言わざるのボケ猿音頭。

経済破綻という深刻な危機に瀕している他の発展途上諸国と比べたとき、ベラルーシに関して言うなれば(これこそが独特なき独特なのだが)経済大国に必要以上の援助を求めようとしないスタンスとセンスに旅人は感動してしまう。

それはルカチェンコ大統領というプーチン・ロシアのイエスマンになってる国家元首の功罪に起因するのだが、それについて述べると原稿料カットという憂き目を見る。なんてことはないが、このイカした雑誌で私の名前を見ることは今後まったくなくなるだろう。そんなことより、さっさと先へ進もう。

ベラルーシ……

かつて「白ロシア」として知られた独立国家のボスの政策のみを見てこの国を判断することは、ビン・ラディンを引っ張り出してイスラム教徒を理解するのと同じくらい幼稚である。が、日本政府はいまだベラルーシといえば知能指数マイナス38.9度の独裁者ルカチェンコと、同氏の下で揉め事もなく、クーデターも起こさず、おだやかに暮らしている国民を同一視している有様(最近、実質的独裁政権に対する大規模なデモが首都ミンスクで幾度か行われたが、そんなことはとっくに忘れていることだろう。北朝鮮ほどではなにしろ、国内の情報がほとんど入ってこない国なのだから)。

しかし、次のような現実を見逃してはならない。

というのは、食っていくので精一杯の国民は、政府がノー! ノー! ノー! と連発しているのも尻目にチェチェンからの難民や、北オセチアからの避難民を快く受け入れ(「どうせ息子が出稼ぎに行ってて空いてる部屋があるんだから、自由に使いなさいよ」)、その他マイノリティーに対するシンパシーの濃厚さ。暗すぎる過去を持つ人種特有の反動的国家再建への意欲のなさ。周辺諸国すべてがヘビー級クラスのアルコール現実逃避王国で(ロシアとポーランドの皆さん、ごめんなさい)ドラッグ・パイプラインを率先して裏導入しているっていうのに(リトアニアの皆様、申し訳ありません)ベラルーシ市民は、いたってシラフでクールでいるという現実。

もちろん、これらに対するもっともらしい回答やタネあかし、一般論の領域を決して出ることのない無難な理由はちゃんとあるのだが、私は筋道のしっかりした理論でかれらを理解したつもりにはなりたくないし、読者各位にもそう簡単に「ああ、なるほどね」なんて安易に分かったフリなどしていただきたくはない。

では、いったい私はかの地で、何を見てきて、何を言いたいのか。

何を感じ、何に対して敬意を示し、何に心を奪われたのか。

多分に語弊があるのは承知の上で結論させていただくと、卑屈なプライドや愛国心などをはるかに超越し、人生の理不尽に対する苦悩を凌駕した世界観。

そして、国民ひとりひとりが持つオリジナリティーとバラエティーに富んだ凄まじい個性。それに尽きる。

一部の比較人類学専門家や、ロボトミー処置の必要な民族学者の大先生を憤慨させてしまうかもしれないが、ベラルーシという国に住む人々ひとりひとりの中には、一風変わった確固たる美学が存在している。

現実から決して目を背けることなく、同時にこの現実が一部の愚かな人間たちが勝手にでっち上げた虚構であるということもちゃんと踏まえ、そんなナンセンスな現実を前にしながらもネット連れション自殺などせず、慎ましさのなんたるかを知り、他国の人間がモノやカネに目が眩んで自己破産婆さんにお世話になったり地位を守ることに固執し執着駅で冷や汗かいてる間に、個々が天から与えられたミッションと個性を守り抜くことに専念し、生活苦にあえぎながらも自分たちより苦境に立たされている人々を助け、受け入れているんだ。

故に日本語に翻訳不可能な「コンパッション」と「グレース」が実態をともなった美しさとなって、国民ひとりひとりの精神的豊かさと人類稀に見る寛容さが、この情報化根悪社会の中でしっかり守られているのではないであろうか。

そのおかげか、自由主義経済という仮面をかぶったヤクザな資本主義大国のターゲットにならずに済んだのかもしれない。

また、集団としてのイデオロギー国家ではなく、無数の個性と自前の美意識と無尽蔵の知性が織りなす集合体として、手垢足垢のついた土足“観光汚染”をまともに受けることなく(汚染なら、すでにもう“チェルノブイリ”で、払う必要のなかったツケを十分過ぎるほど払っているじゃないか)いま現在において、私が滅多に、そして安易安直に使うことの決してない「神秘」と「秘境」という単語を使用できる数少ない土地のひとつとして存在しているのである。

ベラルーシという、せつなくも美しい国が今後、汚染された大地を永久に背負ってゆかなければならないという事実さえ知ろうとしない「無知」は重犯罪に価するだろう。

我々人類は自然界からのメガヒット級しっぺ返しが来たとき、素直に滅びなければならないのだよ、ということをしっかり覚えておこう。思うに、本当の世界平和とは、人類が滅びたときにはじめてやって来るものだろう……。

フー……、ハナシが暴走し過ぎて、なんだかとんでもないところまでフライングしてしまった、が、暴走ついでにもう一点。

20世紀が生んだ、ベラルーシ地区にルーツを持つ、偉大で革命的で、新しいものへと脱皮してゆくことを決して恐れず、最も開拓精神に満ち溢れた森羅万象アーティスト、Bob Dylanというマエストロそのひとが、いまだ新たなる前代未聞の表現の境地を模索しつづけているのと同じように、採算など考慮に入れず、浮世を超越しているかれらは、我々にとって反・反面教師である(飛躍し過ぎたセンテンスの濁流に読者諸君が目をつぶってくれることを願おう)。

 

『バビロンから遠く離れて・Again』

 そして、ふと、筆者はあらためて思う。そもそもこの国の美女たちについて何かをニッポン語で書き、読者に押し売りする必要性などないのかもしれない。

超然とし、気品があり、我々の国とは比較にもならない調和のとれた知性と感受性と妖艶な前衛性。そこから自然に滲み出てくる美しさは、隣接する他の親戚国だけでなく、アメリカや日本や西欧諸国といった先進デシャバリ大国が大量生産する「クローン美女」からかけ離れている。と言うより、レベルのまったく違うプライマリーな美しさ。

世界がとっくの昔に失ってしまった無欲で“足るを知る”という、この時代に最も必要な(達観した悟りの境地とまで言ってしまおう)無意識の美学。この稀に見る奇跡的な国民の中に、あまたの美女たちが颯爽と風を切って浮遊していることは、必然である。

おっと、結論を述べてしまった。

もとい、なぜ、あの救いがたい程あまたの困難を抱え持つベラルーシという土地には、なぜあれほどまでに楽観的な人々が多く、繰り返しになるが、他の親戚カントリーのロシアやウクライナと決定的なまでに違うストイックな魂、ゆるぎない誠実さ、そしてカウント不可能な美女たちの残光が当たり前のように存在しているのだろう……。

答えを出してしまう前に私には、まだ嫌々ながらもやらなければならないことがあった。

「モデル養成学校」なるものへの取材だ。

美女がさらに美女になるべく日夜努力している極秘の練習場所への侵入だ。場所はまるで映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の張りぼてディスコ・セット。

もちろん、そんな場所に“美女のルーツを探る”だとかいうブッ飛んだ企画に貢献できるヒントなんぞ皆無に等しいのは百も千も承知であったが、編者の異常な愛と要望でどうしてもリポートせなあかんかった。

そこでまず私が目にしたものは、部外者が何をしでかすか常に監視している助平で暇なゴースト保安局員と、過剰な疑心暗鬼にパラノッたモデル養成学校の重役たち。さらに、そんな環境の中で緊張し、小糠雨に凍える子犬のような夢見るモデル妖精スクールのニンフェットたち。

その場の尋常ならぬ空気を最小限に抑えるために、ひと肌脱いでサルサを踊ったけなげな筆者(泣)。それが功を奏したかどうか知らぬが、どうにか彼女たちにあるがままの姿を演じてもらえた。

ただ、本当の美しさは心の美からしか生れ出ないと囁く修道女の幻聴に悩まされ、おまけに街中の燐とした女性たちの私生活を覗き見しているような気分になったりして、何もわざわざ……こんな取材しなくたって、と自己嫌悪。

 

そして私はふと思い出す。真夜中のサーカス劇場の真向かい。

そこにある公園。公園の入口から少し入ったところに立つ、ベラルーシを代表する国民的叙情詩人、ヤンカ・クーパラの巨大なブロンズ像。

初めて私が夜、そこを訪れたとき、あまりの威圧的ドスグロさのおかげで、かつてソヴィエト全土を支配した独裁者の暗い影をイメージしてしまった。

次の日、若干16才のオルガ・シェレルという名の少女。

モデルとして世界的成功を約束されたかのようなラッキーなニンフェット。

由緒正しい良家のそのサラブレッド・モデルと共に訪れたとき、なんとも言えぬ詩心をくすぐるような瞳で私にクーパラの話をしてくれたひととき。

そしてその後、川縁で見た地方から来たとおぼしきハネムーンのふたり。

かれらを背に拙い英語で以前見た夢の話をしながらポーズをとっておどけてみせる、我が被写体。

彼女がごく自然に口にする独自のグローカルな世界観と、閉鎖されたこの社会への問題意識。そして、とっておきの個性とキュートな自負心と知識とユーモアとアイロニーの織りなす北国のタペストリー。ニッポン社会主義資本搾取チンピラ国のバービー・ガールたちの織りなす賞味期限付きの使い捨て悪趣味タペストリーとついつい比較してしまった私は、川のほとりを並んで歩くこの北国の少女の魅力と存在感にホールド・アップ。

 

「わたしの夢? 新聞記者になることかしら」と、腰が抜けるような眼差しでサラリと答える、我が被写体。

ベラルーシという独立国が近代史に再登場する直前に生まれたこの少女は、その存在そのものが、この国のすべてを、レトロリカルに代弁していると言っても過言ではないだろう。

自分の国と、周辺各国における悲しい歴史と現状について独自の見解を述べながら、常に前向きで、それでいてどこか淡々としていて、おのれの美しさに気づいていない振りをしながら、憧れの女性の名前を列挙する、その無邪気さ。

いわくあり気なところが微塵もなく、その瞳は果てしなく透き通った氷山の、その一角。触れてしまったらオシマイの危険な香り……そのまま一緒に海底まで沈んでいっても構わない……そして深海魚にでもなって共食いでもしよう。

オッと、いったい何を書いているんだ? 私は。

メディアでさかんに“美少女”と呼ばれ、まわりからチヤホヤされているミーハーな東京のモデルやタレント予備軍が数万人束になってかかっても、到底、彼女の“作られていない美しさ”を前にしては、醜さのみが浮き彫りになるだけだろう。

これは、オルガという少女についてだけ言えることではなく、ミンスクの街を歩く女性たちの、颯爽とした後ろ姿が醸し出す、ある種の強さとけなげな品位について語るときにも当てはまる。

それは、うわっつらな消費社会に汚染されていないフレッシュネス・マインドと、広漠な大地と、厳しい冬の寒さが与えた氷柱の先端のような危うさからくる透明度が(ちょうど、十勝平野のダイヤモンドダストに霞む、街道沿いのカフェの灯と、そこの女主人が持つ美しさのように)北国の彼女たちを際立たせているのかもしれないし、単に私の「ひねくれ」からくる偏見かもしれない……。

深呼吸して落ち着きを取り戻したこのゴンゾー・ジャーナルシシスト。

いよよ“誌面の都合上”を理由に“まとめ”にハイ&ロウ、もとい、入ろう。

地理的条件と美しき自然に恵まれたこの人口約一千万のベラルーシは、ひとつの国家ではなく、一千万の歩く国家の集合体であって、きわめてグルメで、精神的にリッチで、女はことごとく美しく、男はひたすらダンディで、謎も複雑なトリックも何もなく、単にメンタリティーと時代が他の国々より数十年先を行っているが故に見えにくく、捉えどころがないだけのこと。

日本やアメリカがどんなにポケットのジャリ銭鳴らしても、彼女たちは、いや、かの地の人々は振り向きもしないだろうし、ましてや媚びることなど決してないだろう。

逆に足元みられて皮肉たっぷりのレインボー・ユーモアでカウンター・カルチャー・パンチを一発お見舞いされるだけのこと。

 そして……考察と交錯と倒錯はあっけなく終わる。

 ベラルーシという“どこでもないどこか”にある国の人々から受けた印象と核心は、私に代わってこの際、客観性を重視するためにも、ぜひあの女の耽美な唇に語っていただこう。あの女の出番だ。

レナ・ラディオン……

27才という若さでベラルーシ大学の比較言語学における権威として在籍しつつ、同時に世界的に著名な翻訳家。セーヌのほとりに散ったプリンセッサ亡き後、世界で最も赤いバラの似合う女をひとり挙げるとしたら、間違いなく彼女だ!

「わたしも含め、ここに住んでいる人たちはね、みんな内面にそれぞれ独自の国家があるのよ。その内なる国家の中でそれぞれの流行があり、規律法律があり、検閲機関があって……ようは個人個人が頑ななまでに“個”でいることに変な自負心があるのよ。でなきゃ、こんな非情なシステムがまかり通るフェイクで悲惨な世界でサヴァイヴしてゆくことなんて、絶対にわたしたちできないから」                  

2004年9月中旬。ミンスクにて

 

「レナ。君や君が住むあの国は、俺の住むニッポンっていう先進荒廃国より、時代を数百年ばかし先取りしてたよ。訪れたのが数百年遅過ぎて、俺には何がなんだかサッパリわかんなかったぜ!」

かくして私は、絵描きとして神様の最高傑作である“美女”たちを長年描きつづけてきた(模倣してきた)過去の自分を思い起こし、告解する。

そして東京という札束クレジットと欲望とモノに溢れ、他の国から比べれば不況でもなんでもないけばけばしい虚像にインフルエンスされた虚無感から脱獄するため、この原稿を送ったら、“中途半端な美の探究”への悔恨として、そしてふたたび長い旅路に戻るため、さっさとこの「ホテル・ジャパン」をチェック・アウトしよう。

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以上、「ベラルーシ幻想」より。原文そのまま。

2004年

文責:丸本武(Takeshi Traubert Marumoto)

「そして報復の季節へ:ビン・ラディンの残していったもの」

しばらく宙に浮かんだままのベラルーシとチェルノブイリと、中東や北アフリカのことを書こうと思っていた。

しかし、またしても筆を頓挫させられるようなニュースがひっきりなしに東西南北からやって来る。

5月1日のアメリカ軍(特殊小規模部隊)によるオサマ・ビン・ラディン殺害という“出来事”を受け、かつてアル・カーイダの呼応に目覚め、それぞれの手段で武装しテロを企て実行してきた無数の過激派組織が、ふたたび泥まみれになっていたカラシニコフを麻布で磨き始めているのが、なんだか手に取るように筆者の眼に浮かんでしかたがない。

リーマンショック、深刻な雇用問題、いまだ汚染がつづくメキシコ湾の原油流出事故、そして「アメリカ観測史上2番目に最悪」といわれた先日の巨大な竜巻、etc…

そして1日に全米で行われ、移民や労働組合が雄叫びをあげた大規模なメーデー・パレードの直後……

これでもかとオバマ政権を揺るがす諸問題が、まさにピークに差し掛かっていた週に、いきなり出てきたロイヤルストレート・フラッシュ……

いくら一週間前から暗殺計画にゴーサインを出していたと言われても……、でも、まあ深読みはよそう。

そんなことより、今後の世界情勢が心配だ(もちろん原発問題を含めて)。より一層、ピリピリしてくる。

現にイエメンとインドネシアのイスラム過激派組織は早くも公式にアメリカ国民に「脅迫宣言」を出してしまっているし、筆者がかつて個人的に取材した幾つもの小規模な反米イスラム過激派組織は、常にこのような「口実」を待ち構えていたのが、記憶に新しい。

アメリカ政府は「ビン・ラディン容疑者を殺害したことは米国の不屈の姿勢をテロリストに見せつけた」と発表したけれど、そんな火に油を注ぐような発言がどのような結果を招くのか、大抵の常識者ならばシケモクを見るより明らか。

個人的な話になってしまう。

ちょうどビン・ラディンが殺害された時刻、私は眠っていたのだけど、夢を見ていた。

夢というより夢の中である情景を回想していた。

それは、2004年にアラファトの死をラジオで聞き、当時ハウスメイトだったハンガリー人記者と驚きのあまりテーブルの上のパスタをひっくり返してしまった、というシーンだ。

当時、私はある雑誌にアフガニスタンとパキスタン国境付近に広がる「トライバル・テリトリー(部族支配地域)」での体験談を執筆していた。9.11以降、各国の情報機関がビン・ラディンが隠れ潜んでいる地域として筆頭に挙げていたエリアである。

タリバンやアル・カーイダが現代史に登場する少し前に、筆者はその地を何度か訪れていた。また、今回の殺害現場となった“パキスタンの首都イスラマバード近郊アボタバード”という町の周辺も数回訪れたことがあり、どうしてもそれらの土地について何某か書きたいのだけど、そんなことをし始めたら本が一冊できあがってしまいそうなので、時間に余裕がある時にしよう。

今日はとりあえず、先程作ったバナナシナモンパンケーキを喰って、本業に集中したい。

(2011年5月3日 早朝)

一見、重たく大層なタイトルだが、同時にコミカルでもある。

こんな切りだし方は少々突飛に思われるかもしれないが、筆者である「我」にとっては、どうしてもっと早くに触れなかったのだろうと、後悔してもいるのだ。

準無神論社会で成り立つ日本という国にいると、信仰や神について私見を述べる場合、どうしてもキナ臭い話題を持ち出してきたな、といった眼で見られてしまうのが残念でしかたがない。

たとえば、何かの会話で誰かが「神様」というコトバを使った時、なぜか私は「神」に「様」を付けるのは「社長」を「社長様」とコケにしているのと変わらないんだぜ、と口を挟んでしまう。

まあそんなことはどうでもいい。

今回の大震災と原発事故に関して、メディアやジャーナリストが大きくも小さくも報じなかった神や運命について、“ようやく” といった感で書く。

震災後、ほぼ毎日のようにシゴトの合い間に書き連ねた雑文から、その一部をブログにアップしてきた。
ただ感じたことを日記代わりにタタタッと打ち込んできただけであるが・・・。
でも、それら雑文の中の肝心な部分は、毎回省略してきた。

いままであらゆる土地で「神を信じるか?」という問いに出くわしてきたが、私自身の答には幾つかのパターンがある。
「もちろん信じているとも」
とは答えない。
パターンを幾つか列挙してみよう。
「神を信じるかだって? キミは信じていないのか?」
「信じるもなにも “神” がいなけりゃオレが困るんだ」
「その質問は、神が云っていることを信じるか、っていう意味かい?」etc…

お察しの通り、どの答え方も「神が間違いなく存在」していることを前提としている。

ひと言に「神」といっても漠然とし過ぎているので、少しだけ説明を加えると、世界中のありとあらゆる宗教やトライブが信仰する「神」総てを、私は指している。

これまであまり大声ではいわなかったが、この度は正直に書く。
今回の東日本大震災でさえ、人類はおろか宇宙が誕生するはるか昔から既に決められていた出来事だと筆者個人は解釈している。

小生が10代の頃から世界各地で過ごしてきたことはプロファイルにも記したはずだが、それから現在に至るまで、戦争や紛争、虐殺や被災の現場にいやというほど立ち合った。
いや、立ち合っただけでない。実際に自分自身も本当の飢えに苦しみ、何度も殺されかけ、内戦や紛争にも巻き込まれ、あまりに多くの友人の死を目の当たりにしてきた。
家族同然だった人々が理不尽に過ぎる死に方で私の人生から消えてしまったこともある。

なかでも一番ショックだったのは、2000年の春に筆者のアシスタントをしてくれていた当時19才の美大生が、仕掛けられた爆弾で木っぱ微塵に吹き飛んだ時だった。

彼女の肉片のひとつがおのれの手首にピシャリと貼り付いた時の感触は、いまもコトバにできない。

それ以来、どんなに喜ばしく素晴らしい出来事があっても、どんなに悲惨で胸が張り裂けそうになる出来事に直面しても、すべては “あらかじめ決められていたんだ” と理解するようになった。

これを日本語では「運命論」だとか「宿命論」と表したりする。ひどい場合は「狂信的」だとか「現実逃れ」と一蹴してお仕舞いだ。
そんな「さだめ論」を引き合いに出してしまうと大変なことになる。

あの『3.11』からまだ間もない頃のある日、少々ヒステリックな女性に「まるで『すべてはスケジュール通りだった』とでも言いたいワケ!?」と非情な眼つきで睨まれてしまったことがある。それは、テレビ等で繰り返される被災地での美談や、あまりの悲惨さを感情論に終始したカタチで垂れ流す報道を私が非難したことがキッカケだった。

ハナシが長くなってしまった。

この辺にしとこう。

ただ、天災とは、あくまでも「天からの災い」であって、誰が悪いわけでもない。
もし “誰か” が悪いのならば、われわれ全員か、われわれの中にひそむ悪魔であろう。
決して “神” が悪いのではない。

曇り空 ひとりカラスと共に 夕桜

 

ずいぶん昔に君はこんなことを言ったね

インスピレーションが舞い降りてくるなんてのは言い訳よ

本物たちはいつもこっそり書斎の奥でインスピレーションを捏造し

歴史にその名を残す天才たちはだから

歴史に名を残さない優れた薬剤師

歴史にその名を残さない天才たちは 愛すべきヤブ医者たち

 

ずいぶん昔に僕は確かこんなことを言ったね

理不尽に固執しつづける人間だけが凡人の芸術家

理不尽に 理不尽を上塗りして 訳が分からなくなってるのが

本物の芸術家

本物は偽物に恋をし

偽物は本物を嘲り

結局のところ 偽物は偽物という本物で

本物は本物という偽物

そして

よくわからないものを 

もっとよくわからなくするのが君の役目って

takeshi traubert marumoto
丸本武

先程くったくたになりながら駅から25分かけて徒歩で帰還。

様々な方々から寄せられる原発関連のニュースやリビアの情報を、片っぱしから読み倒さなければいけないのか・・・と思いつつ、うがい手洗い終え、着替えてさっぱりすると、ふとオリジナル・エコバッグの中を覗けば、そこにはよく熟れたバナナがひとふさ。

そうそう、帰りしな駅の近くで遅くまで開いているスーパーで買ってきたのだ。
先日、歯医者で神経を抜いて以来、まだ痛みの残る歯や歯茎にとってバナナと豆腐だけが味方なのだ。

パソコンもテレビも新聞もひとまず後回しにし、さっそくバナナパンケーキ作りに取りかかる。もし私に特技があるとしたら、こいつを作ることなのだ。

バナナパンケーキといっても、そう簡単に誰もが美味しく作れるという訳ではない。
石の上にも30年、“加減”を会得するまでが大変なのだ。

バナナの選定、刻み方、ベースとなる生地作り、ミルクと豆乳のバランス、シナモンの量、かき回し方、フライパンの上でひっくり返すタイミング・・・エトセトラ。

フライパンの前で疲れを癒しながら(?)ふと東北で、お腹を減らし凍え、不安と疲労で苦しんでいる被災者のことが頭をよぎる。

よし!

祈りと願いを込め、一生懸命ウマいパンケーキを焼くのだ!! と、ひとり神に誓い、カカオパウダーを些湯で溶かし、指で一筆。

さすがにこの「祈りの」バナナパンケーキ、被災地の子供たちがたらふく食べれるように量産して届けることができるほど小生は聖人ではない。
10枚ぐらいは焼いただろうか。
その内の2枚はすでに私の腹の中にある。

いつか大量の材料とドでかいホットプレートを手に入れて現地に飛んでやる、

と無茶な考えが一瞬よぎった。